FLOW

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結果から導く「理論」、小さな事実を積み重ねる「論理」の取り扱い方でふと思ったこと

ある条件をそろえて、ある程度の母数の中に相関が認められた結果であれば、理論として一般に受け入れられやすい。有名な大学の先生、オリンピックで活躍した一流アスリートなど、世間的に認められた地位を持つ人間ならば、なおさらのこと。

良い結果を導いたその「理論」は、何かを目指す人間にとって指標となり実践され、ときには批判を受けながら、確立されてゆく。または、淘汰されるかもしれない。

いずれにしろ「理論」は、多くの人間が検証をし同様の結果を導いてきた経緯がある。先人たちの知恵という意味で、有用な「理論」は活用すべきだと思う。

 一方、「論理」はひとつひとつの事実を積み上げ、結果を推論してゆく作業になる。このような考えをやれば、こうなるから、こうなって、結果こうなる!という風に。

この場合、積み上げとなる部分を丁寧に丁寧に行う必要がある。飛躍してしまうと、いわゆるちょっとアレになってしまう。奇人・天才と呼べる人たちは、ささいなちょっとした事実から、とんでもない発想に瞬時に行きつくものだが、間がぶっ飛んでいるので一般人には理解されない。ただ、そんなぶっ飛んだ結論から、真実を見抜く場合もあり、それが後に一般に認められ「天才」と後付けされてゆくのかもしれない。しかしながら、ほとんどが変人として認知されるものだが。

「論理」は理解されない場合が多いが、ひとつひとつ丁寧に説明すれば、理解されることも多い。ただし、結果が伴わない場合、信用されるのは難しい可能性が高い。

とはいえ、地震津波などの自然災害においては、結果が出てからでは遅いこともある。無名の人間が地震を予知したところで誰も信じない。大学の研究者でも、なかなか信じてもらえないばかりか、懐疑の目で見られることさえある。しかし、いざ地震が起きてみれば、人々は「大学先生」として信用する。皮肉なものだといつも感じる。

ネットの中で、「雲のかたちがどうちゃらこうちゃら」「飼っている猫が大騒ぎ」などで地震が起きることを予見する人もいるが、鼻で笑ってはいけない気もする。ただ、科学的検証や他人に対して丁寧な説明ができなければ、ただのおさがわせ人間と認知されてしまうだろう。

論理的思考からの推論は、取り扱いに関して非常にナイーブであることを肝に命じながら、自分の中では「ぶっ飛んで」もいいが、他人に対しては説明できるようにしたいと思う。

そういう意味では「理論」は社会的な発言においては安全かもしれない。理論武装したがる人間の気持ちもわからんでもない。ネットで調べればたいていのこと分かるし、自分の知識のように人に伝える手段も簡単だ。あたかも自分の頭が良くなった錯覚さえ覚えるものだ。とりあえず知識はそれなりに増やすことは出来るは事実。正確さという点に於いては、別の問題だけど。。。

でも、はじめての事例や体験したことの無いピンチなど、問題解決能力に関しては、洞察力と観察力を駆使し、基本となる知識をとそれら小さな事実を組み合わせた推論ができる方が僕の好みではある。

変化が大きく、またスピード感も増すばかりの社会だからこそ、「情報=理論」に右往左往したくないものだ。

「ちょうどよい」と「ここちよい」

ちょうどよいはやっぱりちょうどよい

 

この「ちょうどよい」というのが案外難しい。いや、難しいと思うから難しいのか。

 

トレーニングをして何か特別な能力を得るというプラスの感覚とは違い、今あるもの・元々備わっていたものを、うまく調和させた結果、能力が表現されるというのかな。

 

能力が発揮される状態と、「ちょうどよい」感覚の関係。

 

速く走るためにはパワーアップが必要だ、効率のよいフォームが必要だ、ランニングスキルが必要だ、重心移動をスムースにすればいい、インナーマッスルを鍛えればよい、などなど。

巷ではいろいろな情報が流れている。

どれも断片的で、紋切り型で、流行りのようなもので、アカデミックでない情報も多い。

もちろん正確な情報もある。

それらを取捨選択して判断する能力については、ここでは言及しない。

なぜなら、それはあくまでも手段であるから。

 

目的はなんなのか。

自分はどうしたいのか。

何をしたいと感じているのか。

 

自分を認知すること。

そして、自分の何を信じれば良いのか。

それこそ「ちょうどよい」という自分の感性が一つの道しるべとなるのではないか。

 

「ちょうどよい」は身体のメカニカル的な行動としての指標であり、精神的指標は「ここちよい」かな。

ここちよければちょうどよい、ちょうどよければ協調できる、協調できれば機能的かも。

そんなに簡単な三段論法にはならないけど。。。

 

身体が機能的で心地よいと感じるときは、とても速く走れるのは体験している現実。

では、機能的であるための手段はなんなのか。

ぼくは「ちょうどよい」運動を、「ここちよい」気持ちで行うことに、ひとつの答えを見出そうとしている。

 

そうやって20年以上走り続けてきた。

ようやく、その答えを検証できそうな気がしている。

ある先生との出会いによって。


ワクワクはこれからも続く。

剱山へ

2015.8.7 徳島県「剱山」

きもちのよいトレイルだった。

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自然の中に身をおくと、自分の小ささを実感できて、とてもここちよい。

やりたいことやれているかなって思う。

人の評価を気にして愛想笑いできるほど、人付き合いがうまいわけじゃない。

悔いのない人生なんて死ぬときになってみないと分からないけど、少なくとも悔いのない今日はおくれる。

夢中になって駆け回っていたあの日に、なんだか手が届きそうな気がした瞬間だった。

全日本マスターズ陸上にエントリーしてみた

今年で39歳になった。マスターズのカテゴリーでいえばM35ラストの歳。35歳と同じスタートラインにつける最後の歳。

陸上競技やってて良かったと思うのは、どんな選手でもスタートラインでは一緒というところ。ハンデなんかない。身長が高い方が有利な種目でも、スタートラインにつけばみな同じ。権利は平等、結果はそれぞれ。好きだなぁ、こういうの。

種目は100m、400mの2種目。

本来は十種競技や二十種競技に出場したいところだけど、今回の大会は単独種目しかない。無いので諦めて、土曜の午前・午後に行う種目から選んだ。とくに得意という種目ではないけど、エントリーしたからにはできる限りの準備をして望もうと思う。

目標は立てない主義。優勝目指すのは当りまえだから。目指す目標が高ければ、それだけ準備も考えるし、スケジュールから練習、コンディショニング、栄養管理などのマネジメントをしっかりする。簡単に実現できそうな目標だと、準備も適当でいいわけだ。それだけやれば、結果として優勝できなくてもいい。それなりにやった分だけ、悔しい思いはあるけど、悔しいってことは全力を出せた証拠。次に向かって走り出せる。

それに、競技である以上、みんなでてっぺんを目指すことに価値が生まれるわけだから。そんなわけで、やれるだけのことはやるつもりだ。参加賞でいいなら、記録や順位なんていらないし。

いつもは近所や近場の山をタイムや距離をとらずに適当に走っている自分も、たったひとつ陸上競技だけは常に一番を目指すことにしている。それがバランスというのかも。適当に走るのもよし、記録を目指すのもよし。

大会は10月。あと2ヶ月足らず。

あらせずやれることをシンプルにやっていこうと思う。

そこはかとなく ただ走る

会ったことが無い方から「FBを見たけどすごいですね!」とメッセージを受ける。トレイルランを始めたばかりで、いろいろ教えてほしいと。何がすごいか分かりません。

まぁ別にいいですけど、僕はトレイルランナーじゃありませんよ、ただ適当に走っているおっさんですよ、と伝える。イベントに出るつもりもないし、そういう騒がしいのは苦手ですと。

そんなそっけない態度だから、次からはコンタクトが無い。あたりまえか。

仲間がほしいために走るのもよかろう。仲間と楽しく走ってくれ。ぼくは走ることそのものが好きだから、速く走ることも記録を出すことも、あくまでも結果論にすぎない。苦しい練習の先のゴールを目指しているわけでもないし、ゴール後のビールのために走っているわけでもない。

ただ、なんとなく走っていると気持ち良いだけなんだ。

旅と同じ感覚かもしれない。ただぶらぶらと景色が流れ、次の町へ向かい続ける。途中で止まりうまいものを食べ、きれいな景色を眺め、歴史や風土に触れ、風を感じる。

走ることは小さい旅。

旅は一人旅に限るが、たまに人と行くのも楽しい。

走るのも基本ひとり。たまに仲間と行くのも楽しい。

それで充分です。