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HELSINKI の旅 その1

2016.4.7  成田→HELSINKI

2年に一度行われる室内14種陸上の世界大会のためHELSINKIへ向かった。
成田から9時間のフライト、ヘルシンキ・ヴァンター空港へ到着。
空港からFINAIRのバスに乗って30分、ヘルシンキ中央駅へ。そこから、5分ほど歩きホテルについた。
ヘルシンキの町はいわゆるザ・ヨーロッパの町並みと呼べるものの中に、どこかロシアの雰囲気がミックスされ、白い雲と青い空がとても印象的な街だ。石畳とトラムと呼ばれる路面電車がまた良い。

とりあえず写真から。

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答えを出さないという選択が多種多様を生む

なにごとも白黒つける必要はないと思っている。特に普段の生活の中では、ありのままに状況を記憶すればいいと思う。そこに、良し悪しというカテゴリーをつけるから、話がややこしくなるのではないか。素早い判断が求められる社会ではあるが、じっくり吟味せず「0」か「100」かみたいな判断をせまられるのは、頭をひねざるおえない。とはいえ、仕事では判断し適切な道筋をつけることが求められているので、常に情報を取り込み、瞬時に判断し決断する状況にならざるおえない。まったく忙しない。

その反動なのだろうか。いや、もともと備わっていた人格なのだろう。とにかく、日常では、目に入ってきたこと、耳に入ってきたこと、匂い、味、触感に対して、感情をあまり載せることなく、冷静にたんたんと記憶し続けている。特に、日時と場所をタグ付けして状況を記憶することに関しては、自分でも不思議なくらい過去の膨大な記憶を残している。それをどうやって確認しているかどうかは、簡単で過去のスケジュール帳・日記などで確認している。

記憶の仕組みに多少興味がある人なら知っていることだけど、人は何かを記憶するときに感情とセットにすることで、忘れにくくなるという。しかし、それは単にインタープリターと呼ばれる左脳の言い訳機能を説明しているにすぎない。本来の脳は、状況をただ単に記憶する能力を右脳に持っている。その正確な記憶のディテールを呼び戻すとき、左脳に仕組まれた辻褄あわせの説明機能が運用される。すなわち、ほとんどの人間は右脳に取り込んだ事実の断片を、左脳が勝手に組み合わせ脚色して解釈し、思い込みや幻想、自分にとって都合の良い記憶として出力している。

その機能は一見問題が多く含まれているように感じるが、多様性を生むにはとても都合が良い。なぜなら、全ての現象が現象通り理解すれば、誰が見ても同様の見解になり、自然科学にのっとった極めて合理的な社会が構築されるだろう。しかし、世の中にはいろいろな意見が飛び交っている。

同じ映画を見ても、誰もが自分の感想を持ち、それをお互い話すことで楽しい時間を過ごすこともできる。当たり前のことに感じるが、良く考えてみるとなかなか面白い脳のしくみである。

映画を観て、お互いいろいろな感想を言い合うことに結論なんていらない。ライブを聴いたら聴いた人の数だけ感想があるだろう。それらに正解も間違いもない。本来そういうものなんだ。しかし、こと世の中のこととなると話が違ってくるわけだ。

たしかに、世の中のことであれば、選択をせまられることが多くある。しかし、どの選択も常に時間が限られている。短い時間の中で答えを出さなくてはならないことが多すぎる。(少なくとも僕には多すぎる)

しかし、先に述べたように本来人間には状況をそのまま記憶するシステムが内包されている。それが自然で生き残るために重要だったからだ。しかし、人間は左脳のインタープリターを発達させた。これこそが人間であるゆえんなのではないかと思うし、人間が多種多様な文化をつくりあげてきた理由のひとつなんじゃないかと考える。

そういう意味では、より人間味にあふれ魅力的な人間というのは、ことさらおしゃべりが上手なんだと思う。というか、言うまでも無いことだが、ここはあえて言うべきなんだろう。

多種多様な文化をこれからも続けていくには、答えをすぐに出さないで、人とのおしゃべりの中で多くの感性と考えを共有しあうということが、大切なんじゃないかと思いました。

 ありきたりの結論だけど、そういうもんだね。

世の中に役に立たない仙人思考

「汝己を知れ」と言うが、ぼくは「何も知らない自分を知れ」という意味として捉えている。別の言い方をすれば不可知の考え。結局のところ、何も理解してはいないことをつくづく感じているのだ。世の中を理解しようとしても、自分の都合の良いように思い込んでいるだけなんだと。

そもそも理解なんておこがましい考えなのだろう。科学者として自然を理解したいという気持ちはあるが、自然はそれ自体自然に存在しているわけだし、それを自分とうフィルタをかけて、認知しているに過ぎない。物質は粒子と波の特性をもちえていのは、一見矛盾しているように感じるが、人間の概念で理解できない(難しい)だけで、自然はそれらの性質を内胞し、さらに別の表現方法でも自らの性質をあらわす可能性すら持っているわけだ。

 

それこそ他人を理解するなんて、宇宙の果てをさぐるようなもので、わかるはずもない。ただ、宇宙の果ては「ここ」でもあるので、他人を理解するとは「自分を理解」することに他ならないのかもしれない。とはいえ、自分を理解するのも、たぶん一生かかっても無理でしょうなぁ。

 

まぁ、理解しようとする努力はやめてはならないけど、その理解はあくまでも一部・表面であって、無限に深く広がりを持っているということを肝に銘じ、おごることの無いよう気をつけたいものです。

 

そんなことを考えていると、「まったく自分は世の中に役にたたない人間だよなぁ」と思う。こんな話、ほとんど人はどうでもいいことだもんなぁ。「そんなこと考えてもしょーがないじゃん」って言われても、考えちゃうんだからさぁ。。。


他人に迷惑かけなければいいかな。。。

仙人、山を欲する

わたしは仙人。
だが、まだ山をもっていない。
いやいや、仙人がモノや権利を所有してどうする?という御意見もあるが「それはそれ・これはこれ」である。

法律遵守でありながら、仙人として生きていくためには、いろいろ手続きがあるのが現実。なので、しっかりした手続きの元、山に住む為には山の調達が必要なのである。

とりあえず、伊豆の山で格安で売っていただける方を探すところから。

信頼のおける不動産屋さんにも手伝ってもらわなくては。

そして一番大切な事は、実際に自分の足で調査すること。

ひとまず2年くらいかかるかな。

 

群盲象を評すごとき

盲目の方達が象に触れる。ある人は「太い柱のようなものがある」「耳のようなものが大きい」「長いホースのようなものがある」「皮膚がしわしわだ」など、いろいろな表現をする。象を見たことが無いが、触れることで象を理解しようとする。しかし、触れる場所によってそれぞれの感じた象は異なる印象を残す。彼らは間違ってはいない。しかし、象の全てでもない。だからといって、象の全てを語ることは誰にもできることではない。

ゲーデルの不完全性原理やハイゼンベルグの不確定性原理は、科学は不完全であり互いの理論を補完しあうカタチで成り立ち、二面性の性質を同時にもつという矛盾を、全ての物質・現象は内包していると論じた。

膨大な変数がそれぞれ相互作用している様を、有限要素法(まさに有限という条件ではあるが)とコンピュータの発達によって可能となってきたことで、今までの常識を覆すような新たな構造的発見、思いもよらない星の動き、気体のふるまいなどが実用に耐えうるレベルのシミュレーションが可能となりつつある。

とはいえ、それはあくまでも無限の条件と変数を、要素として重みがある成分を抽出して、計算しているにすぎない。比較的簡単な運動(新幹線の運行、物体の放物線運動など)は、ある程度の外乱を無視しても、業務には支障が無いレベルでは使える。

問題は、部分の数が増え、細かくメッシュを切ろうとも、単独の構造の積み上げシステムから上位構造にシフトできないということだ。それは、部分の集合が全体にならないことを理解していないことでもある。

かといって「部分」が間違いというわけではない。部分は部分として確かに存在し、しくみとして成り立っている。しかし、全体を表しているわけでもない。ただ、それらは互いに補完しあっているだけだ。

ちょっと考えれば、至極当たり前のことに思える。部分を少し知っているだけで、全てが分かっているという主張をする愚かな人間にはなりたくないが、どんだけ部分を知って理解したとしても、所詮全体には及ばない。しかし、全体を理解するために、全体しか見ないというのも、全体としての不完全性を理解していない証明でもある。

何かを理解しても、それはある一部で全体ではないこと、分かったつもりでいても、無限の入れ子構造になっているということ、それらが立体的に組み合わさっていることだけでも、理解に努めようと思う。