FLOW

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トレイルランニングとフローについて

子供の頃、登山を趣味にしていた叔父に連れられ、よく近所の山に連れて行ってもらいました。行きは叔父と一緒にのんびり登りますが、帰りの下りは一人で駆け下りていました。下りを駆け抜けることは、まるでウォータースライダーのようで、無我夢中ですごく楽しかった記憶があります。それとともに、自分が自然の中にとけこんでゆくような不思議な感覚もありました。

 

大人になった今でも、一人でトレイルを走っていると、自分と自然の境界があいまいになり、自我が希薄になるのを感じます。自分自身を頭の上から俯瞰しているような状態になります。からだをコントロールするという意識が消え、勝手に動いている身体を、ちょっと離れたところから見ているような状態です。さらに時間も俯瞰をはじめ、この先に起きる未来と今の境界も分からなくなってしまいます。

 

例えば、バランスを崩して転びそうになっても、全く認識していなかった空中にあるツタを無意識に掴んで転ぶのを回避したり、さらにその「転びそうになるけどもツタを掴む」状況があらかじめ数秒前から分かってしまったりします。そしてそのバランスを崩すというのも、あらかじめそうすることがこの空間と場において適切な動きであったことに納得させられたりもします。バランスという概念そのものが固定的な安定ではなく、動的平衡を指しているのならダイナミクスとして妥当なのかもしれません。しかしながら、このような行為・動きは全自動的であり体験後にそんなことがあったようだとなんとなく覚えているだけです。しかも、その体験記憶はあやふやで、まるで夢のようにハッキリとは思い出せないシロモノです。なので、下山して自宅に戻ってくると、言葉として上手に思い出すことが難しいです。(これらの文章もなんとか思い出して書いていて、本当に正確なことなのか保証などできません)

 

また、トレイルランニングの世界より、死と隣あわせのエクストリーム・スポーツの方が、そのような体験を常としているのかもしれません。常識や普通という言葉に囚われている僕らには到底想像のできない領域ですから。 

 

そんな状態になって山を走っている自分ですが、今までそういうことを他人に言うとちょっと頭がイカれている人と思われてしまうくらいは分かっていたので、あえて言うことはしませんでした。代わりに一般的には「山を走るのは楽しい」「自然の中を走るのは気持ちいい」というあたり障りのないことを言っていました。僕自身は対人間危機管理と呼んでいます。

 

ところで、一般的なフロー状態とは「超集中」と呼ばれ、仕事や勉強がむちゃくちゃはかどったりする状態のことを指すようです。思考の極地みたいなものでしょうか。そのような状態になるためのメソッドもネットを調べればいくらでも出てきます。

 

しかし、前述の通り僕の場合は集中の極限みたいな感じではなく、脳がフラットになって自我がギリギリまで薄くなってしまうため、仕事も勉強もはかどるどころか、思考さえほぼ不可能な状態になります。思考や自我がほとんど無い状態で山の中を走っているらしいです。

 

フロー状態では身体は自動化されます。よく分からないけど、勝手に走り続けるのです。足場の悪いところでどこに足を置けばいいのか、なんて考える必要はありません。感覚や実感は無くなり、そこからフィードバックされる情報は意識に上がることはほとんどありません。なので、知識や正しい動きとか、そんなことが役に立たなくなります。身体にもともと備わっている動きが勝手に引き出されるとでも表現すれば良いかもしれません。

 

そのようなフロー状態を体験す、精神と身体は別物ではなく、同一のものであることを感じます。むしろ、なぜ二つに分けて考える必要があるのか疑問に思います。身体を意思でコントロールするという考えは、フロー状態では機能しないということです。自我や意思が身体と自然の調和には邪魔な存在のような気がします。

このようなフロー状態で走っていることが、いったいどういう意味を持つのかは、僕には分かりません。パフォーマンスでいえば、特に速く走っているわけでも無いので競技には向かない状態だと思っています。なので、一般的に高いパフォーマンスを得られるというゾーン状態とは区別しています。

 

しかも、このようなフロー状態は求めようとすれば遠ざかるものであり、意識的にコントロールできるものではない、というのも興味深いことです。

 

パフォーマンスが上がるわけでもなく、景色の美しさに感動することもなく、それを求めることもせず、ただぼーっと山を走っている行為のいったい何が楽しいのでしょうかねぇ。。。



 孤独に歩め罪をなさず

 求めるところは少なく

 林の中の像のように