群盲象を評すごとき
盲目の方達が象に触れる。ある人は「太い柱のようなものがある」「耳のようなものが大きい」「長いホースのようなものがある」「皮膚がしわしわだ」など、いろいろな表現をする。象を見たことが無いが、触れることで象を理解しようとする。しかし、触れる場所によってそれぞれの感じた象は異なる印象を残す。彼らは間違ってはいない。しかし、象の全てでもない。だからといって、象の全てを語ることは誰にもできることではない。
ゲーデルの不完全性原理やハイゼンベルグの不確定性原理は、科学は不完全であり互いの理論を補完しあうカタチで成り立ち、二面性の性質を同時にもつという矛盾を、全ての物質・現象は内包していると論じた。
膨大な変数がそれぞれ相互作用している様を、有限要素法(まさに有限という条件ではあるが)とコンピュータの発達によって可能となってきたことで、今までの常識を覆すような新たな構造的発見、思いもよらない星の動き、気体のふるまいなどが実用に耐えうるレベルのシミュレーションが可能となりつつある。
とはいえ、それはあくまでも無限の条件と変数を、要素として重みがある成分を抽出して、計算しているにすぎない。比較的簡単な運動(新幹線の運行、物体の放物線運動など)は、ある程度の外乱を無視しても、業務には支障が無いレベルでは使える。
問題は、部分の数が増え、細かくメッシュを切ろうとも、単独の構造の積み上げシステムから上位構造にシフトできないということだ。それは、部分の集合が全体にならないことを理解していないことでもある。
かといって「部分」が間違いというわけではない。部分は部分として確かに存在し、しくみとして成り立っている。しかし、全体を表しているわけでもない。ただ、それらは互いに補完しあっているだけだ。
ちょっと考えれば、至極当たり前のことに思える。部分を少し知っているだけで、全てが分かっているという主張をする愚かな人間にはなりたくないが、どんだけ部分を知って理解したとしても、所詮全体には及ばない。しかし、全体を理解するために、全体しか見ないというのも、全体としての不完全性を理解していない証明でもある。
何かを理解しても、それはある一部で全体ではないこと、分かったつもりでいても、無限の入れ子構造になっているということ、それらが立体的に組み合わさっていることだけでも、理解に努めようと思う。
Schedule & Result
----------- SCHEDULE -----------
2023
■10月7日(土)・8日(日)・9日(月) 全日本マスターズ選手権@山口
100m、200m エントリー
MMGトレーナー帯同
■9月30日(土)・10月1日(日) 石川マスターズ混成選手権@金沢
不参加
■9月23日(土)・24日(日) 春野オープン@春野
不参加
■9月9日(土) 東日本マスターズ選手権@八王子上柚木
不参加
■9月2日(土)・3日(日) 高知市選手権@高知
不参加
■7月23日(日) 山梨マスターズ選手権@甲府緑が丘
不参加
■7月8日(土) 東京マスターズ選手権@夢の島
不参加 エントリーしたがケガのためDNS
■6月18日(日) 関東マスターズ選手権@熊谷
不参加
------------ RESUIT -------------
■3月30日(木)・31日(金)
World Masters Athletics Indoor Championships @トルン・ポーランド
200m 予選 24秒6 準決勝 DNF (右半腱様筋遠位部肉離れG1)
くわしいレポートは下記にて
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2022
■11月12日(土) 東日本マスターズ選手権 @相模原ギオンスタジアム
100m 11秒26 (+1.1)
200m DNS
■10月15日(土) 神奈川マスターズ選手権 @大和市競技場
100m 12秒05 (+2.6)
200m 24秒86(+1.1)
■8月13日(土)〜14日(日) 高知合宿 @春野運動公園、高知市営
13日 120m☓3 3セット ハムスト、坐骨神経に大きな疲労とダメージ
250m☓3
14日 左半健様筋遠位 肉離れ(G2)
受傷〜3日 圧迫、冷却、固定 歩行困難
4日〜2週 安静 キネシオテーピング
3〜4週 弱コンセントリック運動(自転車漕ぎ)、軽いストレッチ
5〜6週 中コンセトリック運動(自転車漕ぎ、富士山5合目)、ストレッチ
7〜8週 ジョギング、自転車ダッシュ、ストレッチ
9〜10週 ランニング、軽い流し、ダイナミックストレッチ、ノルディックハム
11〜12週 軽いダッシュ、流し、ノルディックハム
13週 ほぼ復帰
14週 完全復帰 痛み、違和感無し
■7月9日(土) 東京マスターズ選手権 @江東区夢の島競技場
100m 11秒68 (+2.9)
200m 23秒90 (+2.4)
2019
■7月28日(日) 神奈川マスターズ陸上選手権 @大和
100m 12秒26 (-1.8)
走幅跳 5m96 (+2.0)
やり投 34m39
■8月12日(月) 安曇野市陸上記録会 @松本
100m 11秒87 (+0.8)
1000m 2分58秒55
走幅跳 5m97(+2.2)
やり投 34m75
5種競技 DNS
■10月20日(日) 全日本マスターズ混成陸上競技大会 5種競技(M40)
5種競技 3017point 1位
走幅跳 5m82 (+1.1) 661
やり投 36m90 443
円盤投 22m72 367
200m 23.92 (+0.4) 802
1500m 4:43.78 744
2018
■12/8(土) フォトロゲ長泉 (3H) 西くんと
■8/25(土)〜26(日) World Championship Double Decathlon in Delft Masters M40 First Prace
身体はひとつ
「からだにいい運動」というのがちまたでたくさん存在している。ヨガ、ピラティス、骨盤体操、脊柱運動、ストレッチ、螺旋運動、古武術などなど、たぶん数百種類以上。提唱する人の数だけ理論があるんじゃなかろうか。
「良い」という定義もあいまいだから、「良い」には多くの方向性が存在し、結果的に手段も多数存在する。多様性が種の命題だとすれば、いろんな「良い」があってもいいわけで、必然的にいろんな「手段」があって然るべきだと思う。
とはいえ、大抵の「手段」は、己の「手段」が一番良いと思っているふしがあるもの。お互い「良い」の方向性が違うのだから各々が一番であるのは当たり前なんだけど、からだによいという漠然な定義の中では、お互いがけん制し合うのも致し方無いのかな。
そんなわけで「身体の正しい動き」とは何だろうか?
姿勢が良いとは? 正しいフォームとは? 健康に良いとは?
人によって「良い」の定義が異なるのだから、それぞれがいろんなことを言うのは当然なこと。
スポーツ選手が 怪我をして病院にかけこむ。
先生、来週の試合がラストなんです!なんとかしてください!
先生は医学的根拠から出場は不可能だと診断する。しかし、心情的にはなんとかしてあげたい。
医師としては安静にすべき怪我であるので、安易に請負うわけにもいかない。そんな責任もない。
また、医師によっては、過去の経験から特殊な治療法で多くの選手を救ってきた実績がある。選手もそれを知っていて、お願いしている。
いろんな状況や立場がある中、判断をするのは簡単なことではないことが、実際の現場でも良くある。どちらが正しいかなんて無い。選手にとっては出場することが「良い」のであるし、医師にとっては安静にしてケガを治すことが「良い」ことだろう。
大事なことは相手の立場で考え、お互いに信頼を築くこと。一般論だけど、やっぱりそこに落ち着くと思う。
からだにとって良いこととは、相手の立場で考え、相手にとって良いことを一緒に考え、自分の成功したやり方を押し付けないことが前提であると思う。
その中で、「じゃあこういう骨盤体操が今の君にとっては何か改善することができるかもしれないよ」とアドバイスができる。
そうやって他人からアドバイスをもらうためには、自分で自分の状態を把握していないとダメだってこと。いわゆるメタ認知の一つ。
肩が痛い。いつから、どんなことをして、どのようにすると、どんな風に痛いのか。自分の言葉で感覚で説明できることが最も大切なことだと思う。
その中で、自分が思っているほど自分の事を知らない事実を知っていること、が大切になってくる。
常にその目線でいたいと思う。
結果から導く「理論」、小さな事実を積み重ねる「論理」の取り扱い方でふと思ったこと
ある条件をそろえて、ある程度の母数の中に相関が認められた結果であれば、理論として一般に受け入れられやすい。有名な大学の先生、オリンピックで活躍した一流アスリートなど、世間的に認められた地位を持つ人間ならば、なおさらのこと。
良い結果を導いたその「理論」は、何かを目指す人間にとって指標となり実践され、ときには批判を受けながら、確立されてゆく。または、淘汰されるかもしれない。
いずれにしろ「理論」は、多くの人間が検証をし同様の結果を導いてきた経緯がある。先人たちの知恵という意味で、有用な「理論」は活用すべきだと思う。
一方、「論理」はひとつひとつの事実を積み上げ、結果を推論してゆく作業になる。このような考えをやれば、こうなるから、こうなって、結果こうなる!という風に。
この場合、積み上げとなる部分を丁寧に丁寧に行う必要がある。飛躍してしまうと、いわゆるちょっとアレになってしまう。奇人・天才と呼べる人たちは、ささいなちょっとした事実から、とんでもない発想に瞬時に行きつくものだが、間がぶっ飛んでいるので一般人には理解されない。ただ、そんなぶっ飛んだ結論から、真実を見抜く場合もあり、それが後に一般に認められ「天才」と後付けされてゆくのかもしれない。しかしながら、ほとんどが変人として認知されるものだが。
「論理」は理解されない場合が多いが、ひとつひとつ丁寧に説明すれば、理解されることも多い。ただし、結果が伴わない場合、信用されるのは難しい可能性が高い。
とはいえ、地震や津波などの自然災害においては、結果が出てからでは遅いこともある。無名の人間が地震を予知したところで誰も信じない。大学の研究者でも、なかなか信じてもらえないばかりか、懐疑の目で見られることさえある。しかし、いざ地震が起きてみれば、人々は「大学先生」として信用する。皮肉なものだといつも感じる。
ネットの中で、「雲のかたちがどうちゃらこうちゃら」「飼っている猫が大騒ぎ」などで地震が起きることを予見する人もいるが、鼻で笑ってはいけない気もする。ただ、科学的検証や他人に対して丁寧な説明ができなければ、ただのおさがわせ人間と認知されてしまうだろう。
論理的思考からの推論は、取り扱いに関して非常にナイーブであることを肝に命じながら、自分の中では「ぶっ飛んで」もいいが、他人に対しては説明できるようにしたいと思う。
そういう意味では「理論」は社会的な発言においては安全かもしれない。理論武装したがる人間の気持ちもわからんでもない。ネットで調べればたいていのこと分かるし、自分の知識のように人に伝える手段も簡単だ。あたかも自分の頭が良くなった錯覚さえ覚えるものだ。とりあえず知識はそれなりに増やすことは出来るは事実。正確さという点に於いては、別の問題だけど。。。
でも、はじめての事例や体験したことの無いピンチなど、問題解決能力に関しては、洞察力と観察力を駆使し、基本となる知識をとそれら小さな事実を組み合わせた推論ができる方が僕の好みではある。
変化が大きく、またスピード感も増すばかりの社会だからこそ、「情報=理論」に右往左往したくないものだ。