【練習】2022.12.12 mon 〜 2022.12.18 sun
■2022.12.12 mon
REST
練習日記をつけようとしたら、ほぼ3日坊主で終わった。。。
そんなもんですな。
【練習】2022.12.5 mon 〜 2022.12.11 sun
■2022.12.5 mon
ウエイト@市民体育館
クリーン パワーボジション確認、スナッチ20k/5
クリーン 50k/7 + ももあげ系ドリル 3set、70k/3 + ももあげ系ドリル 3set
フルスクワット 40k/10 + ジャンプ系ドリル 3set
ベントオーバーロウ 20k/15 3set
10kプレート 体幹ローテ20+バック10+ハンマー体幹左右6 3set
バックエクステンション 片足固定 ハムと臀筋群
ラン@坂3%
150m☓3 流し
クリーン 股関節伸展と腰椎・胸椎の伸展の統合を意識。フルスクワットでは内転筋の疲労感あり。流しは気持ちよく走れた。
■2022.12.6 Tue
ジョグ5km
■2022.12.7 Wed
ジョグ5km + 坂流し150m☓3
■2022.12.8 Thu
スプリントドリル あれこれ 1時間ほど
■2022.12.9 Fri
ウエイト@市民体育
クリーン パワーボジション確認、スナッチ20k/5、腹筋系
クリーン 50k/7 + ももあげ系ドリル 5set
下からクリーン 50k/7 2set
フルスクワット 40k/10 1set
10kプレート 体幹
ノルディックハム 8回
ラン@坂3%
スピードバンディング 30m☓2
150m☓3 流
■2022.12.10 Sat
ウエイト@市民体育
クリーン パワーボジション確認、スナッチ20k/5、腹筋系
クリーン 50k/7 + ももあげ系ドリル 5set
フルスクワット 40k/10 1set
10kプレート 体幹
ノルディックハム 8回
■2022.12.11 Sun
ロトーバイク クレマチスの丘 50分 軽く
World Masters Athletics Indoor Championships 2023 TORUN にエントリした
2023年3月末にポーランドのトルンで開催される「世界マスターズ陸上室内選手権」の五種競技と200mにエントリーした。
久しぶりの海外試合を楽しもうと思う。
もちろん、楽しむというのは「勝つ」という意味も含まれている。全力で競技をして、ゆるりと旅を楽しんでこようと思う。
それにしてもトルンという町は素敵だ。
ポーランドの首都ワルシャワから260kmほど離れた小さな町だが、大戦の影響を受けなかったため15・16世紀の頃の町並みがそのまま保存されているという。
地動説を唱えたコペルニクスの生家もあり、物理屋としては行かないわけにはいかないだろう。
街の中心には大きな川も流れており、文明の発展にはやはり川が必要なのだ。地形的な興味もあり、できればウロウロいろいろなところを探索したいところだ。
同行する選手は2名、ふたりとも僕と同じく5種競技に参加する。お互い年齢クラスは違うけど、切磋琢磨して満足のゆく結果を出したいと思う。
話は変わるるが、ぼくはプロではないけど結果のためにプロセスを大切にしたいと常に思っている。
ちょうどワールドカップ@カタールの予選が行われ、日本はドイツに2対1で逆転勝利をした。すべての選手とスタッフが自分の仕事をハードにこなした結果ではあるが、2点目をあげた朝の選手には目を瞠るものがあった。彼の動きはすべてにおいて確固たる意思と完璧に準備をしてきた肉体と精神がみえた。圧倒的な存在感だった。
そして、勝利後のインタビューでは、4年前の悔しい思いをした日から、今日まで後悔などいっさいしない準備を日々してきた。日々のトレーニングとケアに一切の妥協をしてこなった。という旨のコメントを残してくれた。
この言葉にはしびれた。
言葉ではいくらでも言えても、本当に每日それをやり続けることの困難さは計り知れない。誰でもどこかで妥協するものだから。でも彼からは1mmも妥協というつまらない言い訳は聞こえてこなかった。もうかっここいとしか言いようがない。
ぼくも95%のがんばりと5%の妥協で準備してゆこうと思う。
人生一回きり、折返し地点はもう過ぎた。
このままなんとなく生きて年老いていくのはやっぱり耐え難い。
魂を燃やして、そこに生きた証を残したいと思う。ただの路傍の石だとしても。。。
「できるできないじゃない、やるかやらないか」って昭和の体育会系の考えかもしれんなぁ
体育会系の人が好きな言葉で「できるできないじゃない、やるかやらないか」という言葉を耳にする。
とにかくやってみることが大切だ、チャレンジすることが大切だよと言っている。できないと言ってやらないより、やってみることが肝心だという意味でもある。
確かにそうだよなと思うところもある。若いときは確かにそう思っていた。
でも、40も後半になると考え方も変わってくる。
できないからやらないのではなくて、そもそもやるという考えすらないから、やらないのだ。
できるできないという言葉を紡ぐためには、未来のことを多少考えになくてはならない。やったことないからできないという言葉は、できる未来が想像できないからだ。つまり、やるやらないを判断している。ここでのポイントは判断である。
判断している以上、思考はしているのだ。
しかし、最近わかってきたのは、そもそも「やる・やらない」の土俵にすら思考が上がらないタイプの人種がいるということだ。
もっといえば認知ができていないのだ。
例えば、日常で常に忘れ物が多く、外出時にケータイや鍵など何かしら忘れるという人だ。このタイプには2ついて、ひとつは自分は忘れやすいので、紙に書いてとびらに貼り確認するという人。もうひとりは、自分が忘れっぽいという自覚があるにも関わらず対策たる行動をおこさない、実は忘れっぽいということをあまり認識でていない人。
当然、前者は「できない」ことを自覚しているから、対策を練って「やる」という行動を選んでいる。それでも、たまには忘れてしまうだろう。つまり「できない」こともたまにある。
後者はちょくちょく「できない」のだが、それを認知していないため「やれる」ようにする対策すらしない。つまり「やる・やらない」を判断せず、最初っからなにもしないのだ。
これは他者からすれば大きな違いである。
前者は努力がみられるので、誰かが手を貸すことがあるだろう。
しかし、後者はどうだろう。
たぶん、最初は手を貸すだろうが、だんだんいつものことに飽き、それに対して何も対策や努力をしようとしないのであれば「また同じことをしている」と思われるだろう。そうなると、他人はなかなか手を貸す気持ちが薄れてくるのは仕方ないことだろう。
できるできないと言う前に、やる・やらないと思う前に、その判断すら思考に上がらない人種がいる。そういう人がひょっとしたら大半で、こんな言葉を使って鼓舞しようとする輩こそもう昭和の古典人の考えなのかもしれないなぁ、とさみしく思ったりもする。
ただ、いつのまにか自分もこんな言葉を使わなくなり思考にもあがらなくなったことを思うと、自分もやる・やらないの判断すらしないぼーっとした認知機能が低下しつつあるおっさんなのかもしれないと俯瞰してみたりしている。