そうやって暮らしてゆこう

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2連発だよ世界選手権 2018

あけましておめでとうございます。

早速ですが、2018年はWorld Championshipに出場して優勝を目指すとう話です。

 

まず、4月は室内陸上14種世界選手権@ヘルシンキ、8月は陸上20種世界選手権@デルフトです。目標は「2大会優勝&世界記録(M40)」です。

すごいように聞こえたらシメシメです。本当のところは自分でもよく分かりません。だけど、男なら胸を張って言えることが大切だと思っています。だから言います。

 

 「ぜってー優勝して世界記録(M40)つくっちゃうもんね」

 

ところで、室内陸上14種競技も陸上20種競技もマイナー競技です。日本での競技人口は少ないです。しかも今回はマスターズです。マスターズとは35歳以上の競技者で、5歳きざみでグループ分けされています。41歳のぼくは40〜44歳のM40クラスとなります。

ようするにマイナー競技をおっさんが頑張るという話です。誰が興味をもつのでしょうか。でも、海外のおっさんは強そうです。パワーもスタミナもデカさも日本人とは比べ物になりません。これは確実に強いでしょう。そんな彼らと一緒の競技会で競技をして、No1を獲ったらなかなか痛快だと思います。

こんな痛快なことを独り占めしてもいいんですが、せっかくなので広めていこうと思いました。マイナー競技だからこそ知ってもらうチャンスがあると思っています。

マイナー競技と違って、メジャー競技は誰でも知っている分バリューがあります。でも、メジャー競技でNo1になるには、なかなか大変です。例えば宝くじで当てるようなものです。

誰でもメジャーNo1を目指してもいいけど、例えばメジャーリーガーになれるのはほんの一握りの人間だけです。プレミアリーグやスペインリーグなどヨーロッパのサッカーリーグで活躍できる日本人も多くはなりましたが、やはり一握りの日本人だけです。

宝くじは誰でも夢を買えます。どこかの誰かは必ず当たります。でも、当たる前提でフェラーリを予約するわけにもいかないし、普通の生活費とするわけにもいかないし、当たる前提で仕事をやめるようなバカはいないでしょう。やはりこれは夢なのです。メジャーに憧れるのはいいけど、夢に終わる可能性の方がはるかに高いということです。

でも、マイナー競技には現実があります。マイナー競技の感覚は、宝くじでは無く投資です。知られていないからこそ、知ってもらうことができます。知ってもらうというリターンが大きいです。大きなリターンは伸びしろです。まさに投資です。そして、今や知ってもらうための環境は十分整っています。そうです、言わずもがなネットです。

ネットはメジャーです。最初から国内どころか海外へ発信することができます。ネットはパワーです。クラウドファンディングによる資金集めができます。動画配信によってアイデアやパフォーマンスをダイレクトに伝えられます。プレスリリースを使ってニュースサイトへの掲載もお願いできます。個人で企画をし営業をかけることができるわけです。

自分が好きなことをコッソリやってきた人生ですが、このおもしろさを少しでもおすそわけさせていただこうと思いました。いや、胸を張って伝えます。この競技はバカでおもしろいぞ!、と。

というわけで、おもしろさを伝えるためにプロジェクトチームを立ち上げました。それぞれのプロフェッショナルの集まりです。プロフェッショナルな彼らは守りには入りません。おもしろいことに常にアンテナを張っている人たちです。そして、自分の能力を使う場所を探しています。僕はジェネラリストとして、彼ら仲間にその能力を思う存分発揮していただきたいと思っています。ぼくは、リーダーでありますが、被験者であり、まさに助けてもらう側です。彼らに出会えたことを彼らのご先祖様に感謝したいと思います。

次回は、どんなことをしてゆくのかをお伝えしようと思います。

動物と人間の輸送コストの決定的な差

輸送コストとは移動の効率を表すシンプルな概念だ。横軸が移動速度、縦軸が移動にかかる単位時間あたりのエネルギー消費量示すグラフのことだ。ほとんどの生物はこのグラフはU字型を描く。U字の底がいわゆるスイート・スポットと言い、最も効率の良いことを表す。つまり、その速度であれば移動距離に対して最小エネルギーで移動できる。簡単に言えば、車の場合60〜80km/hくらいが最も燃費が良いということだ。このU字型グラフを見れば、ほとんどの動物の各種移動速度は、最も効率の良いエネルギー消費で済むようになっている。それぞれの動物の移動速度が異なるのは、その速度がその動物にとっては最良の燃費で移動できる速度ということだ。つまりそうやって進化してきたのだ。

しかし、人間はこの法則が歩くときにしか適用されない。人間は歩く速度(ほぼ5〜7km/h程度)が最もエネルギー効率が良い移動ができるのだが、走ることになるとグラフはU字型からフラット型になる。つまり、エネルギー消費に関して最適の速度が無いということだ。人間にはなせスイートスポットが無いのだろうか。走ることに関して、どのスピードで走ろうが燃費は本当に変わらないのだろうか。それは進化にとって適切だったのだろうか。

この問題は種による違いではなく、個体差で説明ができる。人間の場合、非常に個体差が大きいためサンプル数を平均した結果フラットな直線になってしまったというわけだ。人間は個体差が大きく、エネルギー効率はトレーニングや身体の状態、運動経験によって大きく左右される。

もっと興味深いことは、からだにある個々の筋肉にいつも言えることだ。使う筋肉とエネルギー効率は活動によって異なる。同じ走ることでも、階段を走ったり、丘を駆け上ったり、砂浜を走る場合では、使う筋肉も異なればエネルギー効率も異なる。また、投げる、打つ、泳ぐ、登る、こぐ、回るなどあらゆる活動においても、使われる筋肉とエネルギー効率は異なる。つまり、人間はあらゆる動きをあらゆる速度域で行うことができるというわけだ。

人間は、ある一つの動きに特化しない代わりに、あらゆる動きを行うことが可能なように進化してきた。決して走るためだけに生まれてきたわけではない。人間は元来万能に設計され、学習し経験することでさらにエネルギー効率を高め熟練の域に達することが可能な種である。

人間は万能であることを基本として設計されている。つまり、なんにでもなれるということでもある。ある特定の能力を磨き続けることで特化し、突き抜けることができる。突き抜けた能力は他との差を生みバリューを創出する。そのバリューを一般の人に向け巧みに認知されるようしかけをつくれば、それがお金を生むことになる。

なんでもそこそこできる、またはなんでもだいたいのことは自分でできるというタイプの人間はバリューを創出することは難しいのかもしれない。ぼくのようななんでもそこそこ型の人間は20代まではなんでもできてスゴイということになるが、それ以降は何かに特化した人たちに次々抜かれてゆく。そして最後には全て中途半端な人間が残るだけだ。なんという。。。

そこで僕は考えた。スペシャリストにはなれない。ならばジェネラリストになれば良いのだ。自分でなんでもやらないで、自分より得意な人を探して集めて彼らに適切に託せばいいのだ。自分は、そこそこの広い知識と経験を使って、スペシャリストたちに適切にタスクを頼めばいいのだ。

ジェネラリストとして胸を張れるように生きてゆくには、どうしてゆけばいいのだろう。次はそれを考えてみよう。

どうやって暮らしてゆこう。。。

なかなか物騒なタイトルだけど、ほんとどうやって暮らしてゆこうか模索中の日々を過ごしている。

ぼくは一応会社員なんだけど、はっきり言って全く向いていない。会社の理解不能なルールを理解不能のまま遂行することができないのである。これはつまり一言で言えば「社会不適合者」なのだろう。要領が悪いアホな自分は、目的に対して合理的でないルールづくりの意味を見いだせないばかりか、それに従うことも非常に苦しい性分だ。また、問題や懸案事項の原因を深掘りしすぎるため、他の社員と思考フェーズが合わないのも苦労している。ぼくから見れば皆の意見は浅いところをウロウロしているようにしか聞こえないから、同じような質の問題ばかり発生している。いろんな事象を抽象化し共通の部分を見出すことができないのだ。それでは根本的に解決できないのだと思うのだが。。。

目的に対して非合理的なルールを遂行するのでさえ納得がいかないのに、思考フェーズの合わない他の社員の仕事をするというのは、まるで旅先を決定するだけでも時間がかかり、決まった旅先の行き方で議論し、決まったかに見えたところ、行き先がまた変更して、それらの経緯を報告書にして、いちいち変更届を出して、また最初からプランをやり直しみたいな堂々めぐりのようだ。これはもうコントである。しかも笑えないからたちが悪い。

納得のいかないルールは世の中にたくさんあるが、自分と関係ない世界に対してはあまり気にしない。関係のあるルールにしても、法律というルールに対しては非常に素直に従う。法律が合理的でかつ誰にでも平等とまでいかないが、成立には民主的な手続きが必要だし、まぁ変な法律があったとしても、この国に所属している限りそれを守るのが義務ってもんだと理解しているから。では、会社も理不尽だろうが、非合理的であったとしても、無駄なことだと分かっていても、決められたルールに対して割り切って従えばいいのだけど。。。

ぼくは会社は自分の目的を達成するためのフィールドだと考えている。会社は自分の目的のために存在しているのであって、会社のために仕事をしているわけではない。だから、自分の目的と会社の目的が一致していなかったら、そもそもその会社にいる必要はなくなる。会社側からしてもそうだろう。たとえ会社と自分の目的が一致していても、プロセスや結果が第三者から評価をもらえないのであれば、その会社内だけでしか通用しないものになってしまい、井の中の蛙状態になってしまい個人のキャリアには繋がらい。

そういうわけで、僕は常に外部に発表しても恥ずかしくない論理的思考による説明や報告書を書き、外部に対して十分認めてもらえるような特許や論文を書こうと努力している。そのためには、科学的手法に基づいた実験結果から分かる事実の積み重ねによる丁寧な考察が必要だ。そこには非常に合理的なロジカルが必要になってくる。仮説を立て実験や検証を行い事実を積み重ねる手法を丁寧に行いたいわけだ。

だけど、まぁこの会社では無理なんだろうな。逆にそんな理解ある会社はそうないだろう。やはり会社は理不尽な結果主義なのである。プロセスより結果。その結果も予定されているゴールに向かっているだけだし、予定調和のなにものでもない。新しい発見とは常に予想を超えたところにあるものだが。。。

しかも目的とプロセスがいいかげんだから問題が発生すればすぐにてんやわんやになってしまう。そして、その繰り返し。たとえ、ぼくが将来こうなるだろうと警鐘を鳴らしても、声の大きい人間にかき消される。そして、やっぱりそうなるよね、と呆れることになる。もうこんなサイクル飽き飽きした。

僕は子供の頃から不思議とカンが良くて、このまま進めればあとで起きるだろう問題を感知することができた。人のもめごともそうだし、旅行先で起きること、遊んでいて誰がケガをして大騒ぎになること、数時間後の天気など。おとなになってからは、株価や為替の変動、スポーツの試合結果、数日以内に車をぶつける人、事故をおこす日などがなんとなく分かった。こういうことは、誰にでもあることだと思うけど、ぼくはそのパワーが突出していた。ただ、もちろん人には言わなかった。そんなこと言うとたいてい嫌な顔をされるのを分かっていた。子供の時ウェクスラー式IQが高いことで騒がれたこともあったが、狭い知性の数値化なんてアホなオトナがいかにも好きなネタだと思っていた。出る杭はボコボコにされる。

未来に起こりそうな問題に対して、声を大にして警鐘を鳴らし、みなを説得することも可能かもしれないけど、そもそも僕は声が大きい人は嫌いだからそれは無理と言うものだ。それに当たり前だけど全ての直感が当たるわけではないし、細かいプロセスを説明することもできないから、ダメだったときの批判がすごくなってしまう。「お前、よくわからないこと言うなよ」的空気に変わってゆく。そういう環境にいれば、もう発言はやめておこうと思うようになる。あとで問題が発生した時、心の中で「やっぱりね。そりゃそうだよね」と思う人間へと変貌してゆくのだ。まったくもってクズ野郎だと自分で思う。

しかし、過去所属してきた会社や組織では、ぼくの発言はそれなりにみんなに受け入れてもらえた。声がとりわけ大きかったわけでもないし、性格的に威圧的な態度であるはずもない。ただ、自然な感じで自分の思いを伝えれば、周囲の人間が「なるほど、まぁそれもいいね」という感じで取り入れてくれたり、「今回はよそう」とかやんわり拒否されたりと、どちらにせよちゃんと意見を聞いてくれた。一言で言えば、どんな人間の意見も耳を傾けてくれる、平等で懐の大きい方々であったと思う。

人生の中でそんな人間的にリスペクトできる方々とばかり付き合ってきたので、それが普通の大人なのかと思っていた。しかし、実は今までお世話になってきた方々が特殊だったんだと、ようやく知った。今までずいぶん恵まれていたのだと思った。そんな人間的にリスペクトできる方々とは、今でも交流させてもらっており、ほんとうにありがたいことだと思う。

自分の未来に希望が持てない現状をうけ、これからどうしようと考えていた。一度きりの人生をこのままつまらいフィールドに身を置き続けることは、この世に生を受けることができた幸運をドブに捨てるようなものだ。

このままこの会社にいても自分の10年後の目的は達成できないし、人生の大きな目標からもだいぶ外れてしまっている。いろいろ考え続け友人やカウンセラーの先生とも相談した。正直、答えは簡単なことなんだけど。。。

簡単なことと、現状の問題(生活するための金銭)を天秤にかけ、とりあえず当面は給与分の仕事をしながら、信頼できる仲間と次のことを始めてゆこうと思う。

これからもワクワクした人生を家族とともにおくるためにも、人生は自分でコントロールすべきであるから。

全力とリラックスとゆらぎ

「安定した走りですね」「軸がブレないフォームですね」などお褒めの言葉を頂くことが多いけれど、自分の感覚としては安定した軸のぶれないという感覚はほとんどない。

むしろ安定したところを行ったり来たりしている感覚に近い。安定したところに留まるのではなく、ブランコのように行ったりきたりしているとでも言えるのだろうか。

一応、その振り幅は高速で運動するほど小さくなるけども、基本的にはピタッと全くブレないわけではない。でも、客観的にビデオ分析すると高速走行中も低速走行中も上下動が少なく、左右のブレも一般ランナーより小さい。

自分の感覚と客観的事実は異なっているという分かりやすい例だと思うけれど、じゃあその違いというのは何が作用しているのだろう?そんなことをふと考えることがある。

人から「どうやったらブレないフォームで走れるようになりますか?」とか「どういう意識で走ればいいですか?」と質問されても、「いや、適当にふらふら走っているつもりなんだけど。。。」とは流石に言えないシーンがしばしばある。一応、オトナとしてあまり適当なことは言えないし、かといって嘘は言えないし、なかなか難しいといつも思う。

でも、ガチっとフォームを固めようとすると、あちこちにチカラが入りすぎて疲れるのは誰でも体験できることだと思うから、あえて「チカラを目一杯入れて全力で走った後なら、自然にリラックスしてスムースに走れるんじゃない?」とアドバイスさせてもらったりもする。

そうすると大抵の人は疑う(そりゃそうだ)のだけど、たまに「言われたとおりにやってみたら、なるほどそういうことか!と、なんとなく身体の方でわかった気がすます」という意見をおっしゃってくださる方もいて、あながちこんなアドバイスもありなんじゃないかと、思うこともしばしば。

たぶんほとんど人は本当に全力を出し切ることをしたことが無いから、リラックスもできないのだと思う。本当の全力というのがなんなのかは、人それぞれだと思うけど。。。

全力を出せばリラックスもできる。その振り幅が大きいほど魅力的に思う。走るだけじゃなくて、人生は振り幅なのかなと思ったりもする。振り幅が大きすぎると周りは振り回されることが往々にしてあるけど、そんなこと気にしている場合じゃない。

人生は思っている以上に短い。残り半分の人生は全力で全方位へ振り切りたいと思う41歳なのでした。

FBのテンション高い(意識高い系?)投稿を見ていると疲れるのは私だけ?

ブログをやっていたことをすっかり忘れていた。

もちろん、なんでもない日常、子育て、トレーニング関係、旅行などはいつものペースで楽しんでいた。自分は日常に満足していると、自分的情報発信というものに対して億劫になるらしい。そもそも無名な個人の体験情報が、世間にとってどれだけの価値があるのか考えると、まぁほとんど皆無に等しいと思っている。ブログやSNSの存在はあくまでも遠くにいる友人や親戚に「元気でやってますよ」くらいの活用で十分かなと思っていて、それ以上は危険と判断している。

とはいえ、久しぶりにFBなど開いてみけば、まぁみなさん実に活動的。マラソンやサイクルイベントに参加し、仲間達とやたら笑顔をアピールしている写真を見ていると、なんだか引いてしまうのは僕のつまらない性格が起因しているのでしょうか。。。

それでも元気で楽しそうに生きていてくれて何よりと思う。

そんなわけで、わたしも元気でやっております。