「できるできないじゃない、やるかやらないか」って昭和の体育会系の考えかもしれんなぁ
体育会系の人が好きな言葉で「できるできないじゃない、やるかやらないか」という言葉を耳にする。
とにかくやってみることが大切だ、チャレンジすることが大切だよと言っている。できないと言ってやらないより、やってみることが肝心だという意味でもある。
確かにそうだよなと思うところもある。若いときは確かにそう思っていた。
でも、40も後半になると考え方も変わってくる。
できないからやらないのではなくて、そもそもやるという考えすらないから、やらないのだ。
できるできないという言葉を紡ぐためには、未来のことを多少考えになくてはならない。やったことないからできないという言葉は、できる未来が想像できないからだ。つまり、やるやらないを判断している。ここでのポイントは判断である。
判断している以上、思考はしているのだ。
しかし、最近わかってきたのは、そもそも「やる・やらない」の土俵にすら思考が上がらないタイプの人種がいるということだ。
もっといえば認知ができていないのだ。
例えば、日常で常に忘れ物が多く、外出時にケータイや鍵など何かしら忘れるという人だ。このタイプには2ついて、ひとつは自分は忘れやすいので、紙に書いてとびらに貼り確認するという人。もうひとりは、自分が忘れっぽいという自覚があるにも関わらず対策たる行動をおこさない、実は忘れっぽいということをあまり認識でていない人。
当然、前者は「できない」ことを自覚しているから、対策を練って「やる」という行動を選んでいる。それでも、たまには忘れてしまうだろう。つまり「できない」こともたまにある。
後者はちょくちょく「できない」のだが、それを認知していないため「やれる」ようにする対策すらしない。つまり「やる・やらない」を判断せず、最初っからなにもしないのだ。
これは他者からすれば大きな違いである。
前者は努力がみられるので、誰かが手を貸すことがあるだろう。
しかし、後者はどうだろう。
たぶん、最初は手を貸すだろうが、だんだんいつものことに飽き、それに対して何も対策や努力をしようとしないのであれば「また同じことをしている」と思われるだろう。そうなると、他人はなかなか手を貸す気持ちが薄れてくるのは仕方ないことだろう。
できるできないと言う前に、やる・やらないと思う前に、その判断すら思考に上がらない人種がいる。そういう人がひょっとしたら大半で、こんな言葉を使って鼓舞しようとする輩こそもう昭和の古典人の考えなのかもしれないなぁ、とさみしく思ったりもする。
ただ、いつのまにか自分もこんな言葉を使わなくなり思考にもあがらなくなったことを思うと、自分もやる・やらないの判断すらしないぼーっとした認知機能が低下しつつあるおっさんなのかもしれないと俯瞰してみたりしている。